斎藤十郎兵衛は、阿波徳島藩主・蜂須賀家お抱えの能役者で、宝暦13年生まれとされる人物だと確認されている。 江戸八丁堀にあった徳島藩邸に住み、公儀にも登録された正式な能役者として活動していたことが、蜂須賀家の分限帳などから裏付けられている。
江戸時代の浮世絵師名鑑『浮世絵類考』の改訂版『増補浮世絵類考』には、「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」と記され、写楽の項目に追記されている。 この赤字追記は、蔦屋重三郎と近しい浮世絵師・栄松斎長喜の証言をもとにしたとされ、当時の「関係者情報」が史料に反映された形だと考えられている。
参考)斎藤十郎兵衛 (能役者) - Wikipedia
20世紀後半になると、江戸の住人録『江戸方角分』に「寫樂齊」という画号の人物が八丁堀地蔵橋近くに住んでいたことが指摘され、写楽が実在した絵師であることを示す重要な手がかりになった。 さらに、同じ地域の地図『八丁堀明細図』から、能役者・斎藤家が親子二代で住んでいたことが判明し、能役者の家系と「寫樂齊」の生活圏が重なる点も、説を後押ししている。
参考)私たちは謎の絵師・写楽の正体にどこまで近づいているのか
歴史研究の世界では、「実在が証明できる人物」から検証を進めるのが基本とされるため、名簿や古文書で裏付けられた斎藤十郎兵衛は、現時点で最も有力な「写楽候補」と評価されている。 とはいえ、能役者である彼がどのようにして浮世絵の技術を身につけたのか、どこで版元・蔦屋重三郎と接点を持ったのかについては、決定的な証拠がまだ見つかっていない。
参考)浮世絵史上最大のミステリー!謎の絵師・東洲斎写楽ってどんな人…
十郎兵衛=写楽説が面白いのは、ひとつの「謎解き」で終わらず、阿波藩の能文化、江戸八丁堀の武家社会、そして当時の出版ビジネスが、一本の線でつながって見えてくる点にある。阿波徳島と江戸、能舞台と歌舞伎小屋という、一見離れている世界が、写楽という記号を通じて交差する構図そのものが、現代のファンの想像力を刺激していると言える。
写楽と斎藤十郎兵衛説の文献史料を詳しくたどった記事。
写楽の代名詞ともいえる「大首絵」は、役者の上半身を大胆にクローズアップした構図で、顔と手の動きに芝居の緊張感を凝縮している。 代表作「三世大谷鬼次の江戸兵衛」では、巨大な顔に対して不釣り合いなほど小さく描かれた手が、相手をつかみかかろうとする瞬間の力感を誇張し、舞台上の一コマを切り取ったような迫力を生んでいる。
東京国立博物館には、この第一期大首絵シリーズのうち27点がまとまって所蔵され、重要文化財に指定されている。 展覧会では「市川鰕蔵の竹村定之進」「奴一平」「乳人重の井」など、歌舞伎の人気狂言に取材した作品が一堂に並び、舞台の場面を横断的に追体験できる構成がしばしば用意される。
参考)東京国立博物館
写楽の役者絵の特徴としてしばしば指摘されるのが、「似顔絵」のような容赦ない描写だ。 同時代の絵師・勝川春英らが役者を美化し、役柄に合わせて“理想の顔”を描いたのに対し、写楽はかぎ鼻やしゃくれ顎、たるんだ頬といった個性をむしろ強調する方向でデフォルメしている。
参考)誇張とリアル!東洲斎写楽の「役者絵」は無名絵師だからできた“…
| ポイント | 従来の役者絵 | 写楽の役者絵 |
|---|---|---|
| 顔立ち | 美化・均整重視 | 欠点も含めた強い個性表現 |
| 構図 | 全身像が中心 | 大首絵で表情と手に集中 |
| 背景処理 | 簡素な色面 | 雲母摺などによる光沢背景で役者を浮かび上がらせる |
特に注目されるのが「手」の描写で、拳を握る角度や扇子を持つ指先のしなりなど、細部のポーズから役柄の心理を読み取れるように計算されている。 能の稽古で培われる身体の使い方は、型の中で微細な動きに感情を込める点で歌舞伎と通じる部分があり、能役者である十郎兵衛が、舞台上の「一瞬の所作」を絵の中に封じ込める感覚を自然に持っていたと考える研究者もいる。
東京国立博物館の展覧会解説は、こうした大首絵が単なる役者の肖像ではなく、「舞台の時間を一瞬で凝縮したメディア」である点を強調している。 いま風に言えば、当時の役者絵は“推し活グッズ”であり、その中で写楽の大首絵は、推しの「かわいさ」よりも「生々しい魅力」に振り切ったビジュアルとして、好みが分かれる尖ったプロダクトだったとも言えるだろう。
写楽の大首絵と歌舞伎の演目解説を網羅的に紹介している浮世絵入門サイト。
浮世絵史上最大のミステリー!謎の絵師・東洲斎写楽ってどんな人?
写楽の作品が世に出たのは、寛政6年(1794)5月から翌年正月までの、わずか10カ月ほどの期間に集中している。 この短期間に約140点もの作品が版行され、しかも第1期の大首絵から第2期以降の全身像、武者絵や相撲絵まで、作風を次々と変化させている点は、他の浮世絵師と比べてもきわめて特異だ。
版元を務めたのは、黄表紙や洒落本でヒットを連発した「江戸のメディア王」こと蔦屋重三郎で、写楽の全作品が蔦屋の耕書堂から出版されている。 デビュー時には、役者の半身像28図を一挙に刊行し、雲母摺の豪華な仕立てで市場に投入したことから、蔦屋が相当な勝負手として写楽プロジェクトを立ち上げていたことがうかがえる。
参考)蔦屋重三郎の功罪!写楽はわずか10カ月で消息を絶った…使い潰…
しかし、当時の評判は芳しくなく、『浮世絵類考』には「真を画かんとてあからさまに描きすぎたため、長く世に行われず一両年にして止む」といった趣旨の記述が残る。 女形の化粧の下に透ける男性的な骨格や、老けた顔立ちをそのまま描く作風は、役者本人やファンにとって「見たくない現実」を突きつけるものでもあり、商業的には失敗に終わったとされる。
参考)東洲斎写楽とは? 10か月で消えた謎の浮世絵師の正体と代表作…
その結果、蔦屋の晩年の経営には打撃となり、写楽シリーズ打ち切りから数年後に蔦屋はこの世を去っている。 逆に言えば、蔦屋はそれだけのリスクをとって、「リアルな役者像」という新しいビジュアルを市場に問うたことになり、十郎兵衛=写楽説を採るなら、能役者と版元がタッグを組んだ大胆な実験だったともとらえられる。
20世紀に入ると、ドイツの心理学者ユリウス・クルトが著した『Sharaku』によって、写楽の評価は一変する。 クルトは役者の心理や個性の描写に注目し、レンブラントやベラスケスと並ぶ肖像画家として高く評価したことで、欧州のコレクター市場で写楽作品の価値が急騰した。
クルトの本をきっかけに、「写楽の正体は誰か」をめぐる推理合戦が本格化し、北斎や歌麿、蔦屋自身を候補とする数多くの説が乱立したが、文献と古文書の積み上げから斎藤十郎兵衛説が「定説」に近いポジションを占めつつあるのが現在の状況だ。 10カ月で終わった実験は、その後200年以上にわたって、世界中の研究者とファンを巻き込む「終わらないプロジェクト」へと姿を変えたとも言えるだろう。
近年の写楽・十郎兵衛ブームを一気に加速させた要因のひとつが、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」だ。 物語の中で蔦屋重三郎と写楽の関係が描かれる過程で、「東洲斎写楽=阿波徳島藩の能役者・斎藤十郎兵衛」説が繰り返し取り上げられ、ネットニュースや解説記事でもこの説が“定番”として紹介されるようになっている。
ドラマの放送に合わせて、東京国立博物館や地方美術館では写楽や蔦屋重三郎をテーマにした展覧会・特集展示が開催され、重要文化財指定の大首絵がまとまって公開される機会も増えた。 展示解説では、従来の美術史的な枠を超え、版元ビジネスや江戸のファン文化、現代のコンテンツ産業とのつながりまでを視野に入れたストーリーが語られているのが特徴的だ。
参考)「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」(東京国立博物館)…
徳島側でも、阿波藩ゆかりの能役者が世界的な浮世絵師と同一人物かもしれないという物語性を活かし、観光・文化資源としての発信が始まっている。 徳島県内の資料館では、蜂須賀家の分限帳や能関係の資料展示を通じて、斎藤家能役者一族の実像に迫る試みが行われ、写楽研究の視点からも注目を集めている。
参考)謎の浮世絵師・写楽は阿波藩ゆかりの能役者が最有力 大河「べら…
メディア記事では、「写楽=十郎兵衛説はドラマ本編ではほとんど触れられないのに、関連コラムでは定説として説明される」という逆転現象も話題になった。 フィクションと史実のあいだに距離を置きつつ、視聴者側が自発的に調べたくなる“余白”を残している点は、まさに写楽という存在のミステリアスさと響き合っている。
参考)https://news.yahoo.co.jp/articles/4a0af56c5431eef853e476cf6b8180ad55a2a610
コンテンツビジネスの観点から見ると、「正体不明だが仮説に厚みがあるキャラクター」は、物語化にとって格好の素材だ。写楽の場合、阿波藩の能役者という地方性、江戸のメディア王・蔦屋との関係、10カ月で消えたというドラマ性の三拍子がそろっており、今後もドラマ・漫画・ゲームなどで再解釈される可能性が高いと言える。実際に、現代アートや広告デザインの中で写楽の大首絵が“引用”されるケースはすでに増えており、江戸の役者絵はポップアイコンとしても再生産され続けている。
参考)世界から集う「写楽」 特別展「写楽」 東京国立博物館 平…
「能役者が浮世絵を描いた」と聞くと突飛に聞こえるが、舞台芸能とビジュアルアートのあいだには、もともと深い親和性がある。能では「型」と呼ばれる決まった所作の中で、足の運びや上体の傾き、面の角度といったわずかな変化に感情を込めるが、その感覚は写楽の役者絵における誇張されたポーズや鋭い眼差しの描写とよく響き合う。
写楽の大首絵をよく見ると、役者の視線の向きや肩のねじれが、画面外の相手役の存在を強く意識させるように設計されている。 「奴江戸兵衛」と「奴一平」の対になる作品では、二人の視線がぴたりと交差するように構図が組まれており、別々の紙に刷られたにもかかわらず、一枚の舞台空間としてつながって見える。
能の舞台上でも、シテとワキが対峙する構図や、面をわずかに振ることで感情の変化を表現する瞬間があるが、その「見えない線」を観客に意識させる技法は、写楽の画面構成と共通する部分が多い。斎藤十郎兵衛が長年能舞台で培ってきた身体運用の感覚を、紙の上での構図や線の抑揚に置き換えたと考えると、彼の二重のキャリアはむしろ自然なものに見えてくる。
この三者の関係を意識して作品を眺めると、写楽の線の強弱や、指先の角度ひとつまでが「型」として見えてくるのが面白い。例えば、拳を握る角度や手首の反り具合を追っていくと、能の「剣の型」や「留めの型」と視覚的に似たリズムを感じるという指摘もある。
参考)浮世絵師の東洲斎写楽とはどのような人物?謎の浮世絵師といわれ…
こうした視点は、まだ学術的に体系化されているとは言いがたいが、今後「能楽×浮世絵」という越境的な研究や展覧会が増えれば、十郎兵衛=写楽説に新しい説得力を与えるかもしれない。阿波藩能と江戸歌舞伎、そして浮世絵が一つの身体感覚で束ねられるとき、写楽というミステリーは、単なる“正体探し”から、日本の舞台芸術とビジュアル文化を横断するダイナミックな物語へと姿を変えていくだろう。