蔦屋重三郎死因脚気、江戸時代版元生涯と江戸患い原因

江戸のメディア王と呼ばれた蔦屋重三郎は、47歳という若さで脚気により命を落としました。当時の江戸で流行した「江戸患い」とは何だったのか、そして成功者を襲ったこの病の正体とは何だったのでしょうか?

蔦屋重三郎死因脚気とは

🎨 蔦屋重三郎の死因と生涯概要
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寛政9年(1797年)5月6日に死去

江戸のメディア王として活躍した蔦屋重三郎は、享年47歳で脚気により亡くなりました

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死因は江戸患いと呼ばれた脚気

ビタミンB1欠乏が原因で、当時の江戸で広く流行していた病気でした

前年秋から体調不良が続く

寛政8年秋頃から体調が悪化し、最終的に心不全などの合併症で命を落としたとされます

蔦屋重三郎の死因となった脚気の実態

 

蔦屋重三郎の死因となった脚気は、ビタミンB1の欠乏によって引き起こされる病気です。曲亭馬琴の『近世物之本江戸作者部類』には「惜むべし、寛政九年の夏五月脚気を患ひて身まかりぬ」と記録されており、江戸時代から死因が明確に伝えられています。

 

参考)蔦屋重三郎の死因は脚気?晩年の姿は?墓所は?その生涯を簡単に…

脚気は末梢神経障害と心臓機能の低下を引き起こす病気で、倦怠感、手足のしびれ、むくみなどの症状が現れます。重症化すると心不全に至ることもあり、蔦屋重三郎も寛政8年(1796年)の秋頃から体調不良を訴えていたとされています。

 

参考)脚気|病気症状ナビbyクラウドドクター

Wikipediaの蔦屋重三郎ページ
蔦屋重三郎の生涯と死因についての詳細な情報が記載されています。

 

症状の進行としては以下のような経過をたどります:

  • 初期症状:足のむくみ、だるさ、食欲不振
  • 中期症状:手足のしびれ、歩行困難、動悸や息切れ
  • 末期症状:心不全による呼吸困難、全身の浮腫

蔦屋重三郎の場合、多忙な出版業務と白米中心の食生活が重なり、ビタミンB1が慢性的に不足していたと考えられます。

 

参考)蔦屋重三郎の死因は脚気?最期の姿やお墓の場所を解説

蔦屋重三郎が脚気にかかった江戸時代背景

江戸時代に脚気が流行した最大の理由は、精米技術の進歩により白米を食べることが一般化したことです。玄米には胚芽部分にビタミンB1が豊富に含まれていますが、精米によってこれが取り除かれてしまいます。

 

参考)「江戸わずらいの謎:脚気と戦った日本の歴史」|大谷義則

元禄年間以降、江戸では白米のおいしさに目覚めた人々が増え、特に富裕層や将軍をはじめとする上流階級で脚気が多く発症しました。このため脚気は「江戸患い」「江戸わずらい」と呼ばれるようになりました。

 

参考)お米だけだと栄養不足!?日本人とお米とビタミンB1の関係|が…

江戸で脚気が流行した要因:

  • 白米中心の食生活で副食が不十分だった
  • 成功した商人や出版業者は多忙で栄養管理ができなかった
  • 地方から江戸に出てきた人が白米を食べるようになり発症した
  • 当時はビタミンの概念がなく予防法が確立されていなかった

蔦屋重三郎も吉原から日本橋に進出して成功を収めた版元として、白米を常食できる立場にありました。しかしその繁栄が皮肉にも命を縮める結果となったのです。

 

蔦屋重三郎の生涯における版元としての業績

蔦屋重三郎は寛延3年(1750年)に新吉原で生まれ、安永2年(1773年)に吉原大門前に書店「耕書堂」を開業しました。23歳で版元としての道を歩み始め、吉原細見(遊女情報誌)の出版から事業を拡大していきます。

 

参考)蔦屋重三郎 - Wikipedia

天明3年(1783年)には江戸の出版業界の中心地である日本橋通油町に進出し、本格的な版元として活動を開始しました。喜多川歌麿を大々的にプロモーションし、美人画の大首絵という革新的な様式を確立させます。

 

参考)江戸の出版業界に革命を起こした、蔦屋重三郎の生涯|歌麿・写楽…

台東区の蔦屋重三郎特設サイト
蔦屋重三郎ゆかりの地や関係人物についての情報が充実しています。

 

主な業績と功績:

  • 喜多川歌麿の美人画大首絵をプロデュースし浮世絵黄金期を築いた
  • 謎の浮世絵師東洲斎写楽を世に送り出し役者絵の革新を図った
  • 山東京伝、曲亭馬琴、十返舎一九など多数の戯作者を支援した
  • 黄表紙、洒落本、狂歌本など多様なジャンルの出版物を手がけた
  • 寛政の改革による出版統制に対抗しながら文化活動を継続した

寛政3年(1791年)には山東京伝の洒落本が摘発され、蔦屋重三郎自身も身上半減という重い処罰を受けましたが、その後も書物問屋として事業を継続し、江戸文化の発展に貢献し続けました。

蔦屋重三郎の脚気と当時の医療事情

江戸時代の医療では、脚気の原因がビタミンB1欠乏であることは知られていませんでした。しかし経験的に、漢方医は白米の代わりに麦飯、蕎麦、小豆を食べさせる療法を用いていました。

当時の脚気治療の試み:

  • 麦飯や玄米への切り替え(経験的にビタミンB1を補給)
  • 蕎麦や小豆などの雑穀の摂取
  • 漢方薬による対症療法
  • 地方へ帰郷させる(食生活の改善)

蔦屋重三郎の晩年について、詳細な記録は少ないものの、寛政8年(1796年)秋頃から体調不良を訴え、翌年5月6日の夕刻に静かに息を引き取ったとされています。享年47歳(または48歳)という若さでの死は、出版業界に大きな衝撃を与えました。

 

参考)蔦屋重三郎は何をした人?死因や処罰内容、現在子孫はいるのかな…

曲亭馬琴は蔦屋重三郎の死を悼んで「夏菊にむなしき枕見る日かな」という句を詠んでいます。これは主が不在となった枕に哀愁の意を込めた追悼の歌です。

蔦屋重三郎の死後における文化的影響と評価

蔦屋重三郎の死後、店は婿養子の勇助が二代目として継承しましたが、初代が築いた文化的遺産は計り知れないものでした。二代目は葛飾北斎を本格的に起用し、『東遊』『東都名所一覧』などの作品を刊行していきます。

現代における評価と影響:

  • 「江戸のメディア王」として文学史・美術史で高く評価される
  • 書店チェーン「TSUTAYA」の名前の由来となった(直接的ではないが文化的影響)
  • 2025年NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の主人公として再注目
  • 浮世絵黄金期を演出したプロデューサーとして国際的に評価

文学研究者の鈴木俊幸は、蔦屋重三郎について「当時を代表する錦絵や草紙類を世に出したというだけではなく、文芸の史的展開に深く関与したという点でも注目すべき板元」と評しています。

蔦屋重三郎の死因解説サイト
脚気という病気の詳細と蔦屋重三郎の最期についての考察が掲載されています。

 

蔦屋重三郎の墓は台東区の正法寺にあり、本名「喜多川柯理」が刻まれた墓碑には、親交のあった石川雅望大田南畝による碑文が復刻されています。彼が47年という短い人生で成し遂げた文化的功績は、江戸文化史において欠くことのできないものとして今も語り継がれています。

脚気という病気は、現代では栄養失調の一種として予防可能ですが、江戸時代には多くの成功者や才能ある人々の命を奪いました。蔦屋重三郎の死は、繁栄の影に潜む健康問題という江戸時代の社会構造を象徴する出来事だったのです。

 

 


新版 蔦屋重三郎 (平凡社ライブラリー)