石川雅望は江戸時代後期の狂歌師・国学者・戯作者で、狂名(狂歌師としての名)を宿屋飯盛といいます。
家は江戸・小伝馬町で旅籠を営み、通称が糠屋七兵衛とされる点は、作品の「町人感覚」を理解する手がかりになります。
また父が浮世絵師としても知られた石川豊信だとされ、出版文化・絵と文の距離が近い環境で育ったことがうかがえます。
理解の軸は、次の3つを分けて押さえることです。
参考)石川雅望 - Wikipedia
意外に見落とされがちなのが、「狂歌の人=軽い」ではなく、笑いを成立させるために古典・語彙・典拠の扱いへ強い関心を持っていた点です。
この“笑いの裏側にある調査力”が、のちの『雅言集覧』や『源註余滴』の仕事ともつながっていきます。
(人物像・著作・冤罪と蟄居などの概略)
コトバンク:石川雅望
石川雅望は蔦屋重三郎と組んだ出版活動でも知られ、狂歌ブームを「本の形」に固定した存在として語られます。
『古今狂歌袋』は、百人一首の絵本にならって、狂歌作者たちの作品と肖像を収めた狂歌本として紹介されています。
ここで重要なのは、狂歌が単なる口頭の流行ではなく、「作者の顔」「名声」「ネットワーク」を可視化するメディアへ変わっていった点です。
『古今狂歌袋』の“効き方”を、現代の流行りの情報になぞらえるなら、次のような構造です。
参考)古今狂歌袋
石川雅望(宿屋飯盛)がこの形式に関わったことは、狂歌を“文化のアーカイブ”へ押し上げる役割を担った、と言い換えられます。
検索で「石川雅望」と出会った読者が最初に面白がれるのも、こうした「作品と人物がセットで残っている」資料が多いからです。
(『古今狂歌袋』の位置づけ・概要)
国文学研究資料館:古今狂歌袋
石川雅望は、喜多川歌麿が挿絵を描いた『画本虫撰』などの狂歌絵本でも名が挙がり、狂歌と視覚表現が結びついた代表例として触れられます。
このタイプの本は「読んで笑う」だけでなく、「見て楽しむ」「人に見せる」用途を強く持ち、結果として流通の幅が広がります。
だからこそ、宿屋飯盛の活動は“文学史”だけでなく、“出版史・メディア史”の文脈で再評価されやすいのです。
また、蔦屋重三郎の周辺人物をまとめた案内の中で、石川雅望は天明狂歌四天王の1人として位置づけられています。
この「四天王」という呼び方は、個人の才能だけでなく、同時代の競争・協業・序列の感覚を伝えるラベルでもあります。
“誰と並べられているか”を見るだけで、当時の狂歌界の勢力図が立ち上がるのが、宿屋飯盛の資料の面白さです。
ここで覚えておくと便利な関連語を、最小限に整理します。
石川雅望は寛政3年(1791年)に家業に関する冤罪で江戸払いとなり、その期間に国学の学殖を深めた結果、『雅言集覧』や『源註余滴』などを著したと説明されています。
ここが“意外なポイント”で、表舞台から退いた時間が、むしろ学問的アウトプットの密度を高める方向に働いたと読み取れます。
狂歌の人が辞書と注釈を書いた、という逆転に見えますが、典拠を読み、語を集め、用例で裏づける姿勢は、狂歌の技法(ひねり・掛詞・引用)と相性が良い面もあります。
『雅言集覧』は古語の索引的辞書として言及され、国語学史上で評価が高い旨も述べられています。
『源註余滴』は『源氏物語』注釈書として挙げられ、対象を一つに絞って読み込むタイプの仕事であることが分かります。
この2つを「いまの流行りの情報を知りたい人」向けに言い換えると、バズを追うのではなく、言葉の“出どころ”を追って再現性のある理解に変換する作業だ、と捉えられます。
実用的には、次の読み方がおすすめです。
| 観点 | 宿屋飯盛(狂歌) | 石川雅望(国学) |
|---|---|---|
| 中心 | 機知・滑稽・引用の妙。 | 語彙整理・注釈・用例収集。 |
| 代表的な入口 | 『古今狂歌袋』など狂歌本。 | 『雅言集覧』『源註余滴』。 |
| 現代的なたとえ | 場のノリを言語化して共有するメディア運用。 | 一次情報に遡る「語のデータベース化」思考。 |
(蔦屋重三郎と石川雅望、ゆかりの地・関連人物の整理)
台東区:蔦屋重三郎を知る(ゆかりの人物)
なお、台東区の案内では、2025年放送の大河ドラマ「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~」に触れつつ、蔦屋重三郎と周辺人物をまとめて紹介しており、石川雅望を“流行りの入口”から追いかける導線として使えます。