公的年金の受給開始年齢は原則65歳ですが、希望すれば60歳から前倒しで受け取ることができます。これを「繰上げ受給」と呼びます。しかし、繰上げ受給を選択すると年金額は減額されることになります。
減額率は生年月日によって異なります。
例えば、65歳から月額10万円の年金を受け取れる人が60歳から繰上げ受給を選択した場合(60カ月分の繰上げ)、昭和37年4月2日以降生まれなら24%(0.4%×60カ月)の減額となり、月額7万6,000円になります。
この減額は一時的なものではなく、生涯にわたって続くため、長生きすればするほど減額の影響は大きくなります。繰上げ受給を検討する際は、この点を十分に考慮する必要があります。
繰上げ受給を選択するかどうかを判断する際に重要なのが「損益分岐点」です。これは、繰上げ受給した場合と65歳から通常受給した場合の累計受給額が逆転する年齢を指します。
60歳から繰上げ受給した場合、65歳からの通常受給と比較して損益分岐点は約80歳10カ月とされています。つまり、80歳10カ月より長く生きる場合は、繰上げせずに65歳から受給した方が生涯で受け取る年金総額は多くなります。
日本人の平均寿命は男性が81歳、女性が87歳(2024年現在)であることを考えると、平均的な寿命を前提とすれば、繰上げ受給は総額で見るとあまり得策ではないかもしれません。
ただし、早く年金を受け取りたい事情がある場合や、受給総額よりも早期に安定した収入を得ることを優先する場合には、繰上げ受給も選択肢となります。自分の健康状態や家族の寿命傾向なども考慮して判断することが大切です。
一方、年金の受給開始を65歳より遅らせる「繰下げ受給」という選択肢もあります。2022年4月からは繰下げ可能な上限年齢が70歳から75歳に引き上げられました。
繰下げ受給のメリットは、1カ月あたり0.7%の増額率が適用されることです。例えば。
65歳時点で月額10万円の年金が受け取れる人が70歳まで繰下げると月額14万2,000円、75歳まで繰下げると月額18万4,000円になります。
繰下げ受給の損益分岐点は、70歳まで繰下げた場合は約82歳、75歳まで繰下げた場合は約87歳とされています。平均寿命を考えると、特に女性や長寿の傾向がある方にとっては、繰下げ受給が有利になる可能性が高いでしょう。
ただし、繰下げ期間中は年金を受け取れないため、その間の生活費を別途確保する必要があります。また、早期に亡くなった場合は総受給額が少なくなるリスクもあります。
年金受給年齢を検討する際に考慮すべきもう一つの重要な要素が「在職老齢年金制度」です。これは、年金を受給しながら働く場合に、収入に応じて年金が減額される制度です。
65歳未満の場合、賃金と老齢厚生年金の合計が月額28万円を超えると、超えた部分について年金が減額されます。65歳以上の場合は、賃金と老齢厚生年金の合計が月額47万円を超えると、超えた部分の半分が年金から減額されます。
この制度があるため、60代前半で働きながら年金を受給する予定の方は、繰上げ受給を選択すると二重の減額(繰上げによる減額と在職老齢年金制度による減額)を受ける可能性があります。
特に注目すべき点として、在職老齢年金制度によって年金が全額支給停止になる場合、年金受給を繰下げた方が有利になるケースがあります。年金が全額支給停止される場合の最適な年金受給開始年齢は65歳(繰下げしない)とされており、これは割引率がゼロになっても変わらないという研究結果もあります。
年金受給開始年齢の選択は、個人の状況によって最適解が異なります。以下のポイントを考慮して判断することをおすすめします。
最適な選択をするためには、自分の状況に合わせたシミュレーションを行うことが重要です。年金事務所や社会保険労務士、ファイナンシャルプランナーなどの専門家に相談することも有効でしょう。
また、年金制度は改正されることがあるため、最新の情報を確認することも大切です。2022年4月には繰下げ受給の上限年齢が75歳に引き上げられるなど、制度変更が行われています。
年金受給額を考える際には、手取り額に影響する税金や社会保険料についても考慮する必要があります。繰下げ受給によって年金額が増えると、所得税や住民税、医療保険料などの負担も増える可能性があります。
例えば、年金収入が増えることで所得税の課税対象額が増え、税率が上がる場合があります。また、年金収入が一定額を超えると、医療費の自己負担割合が1割から2割、または3割に引き上げられることもあります。
繰下げ受給のデメリットとして、「年金額が増えることにより、税金や医療費の負担額が多くなる」点が挙げられています。このため、単純に年金額の増減だけでなく、手取り額を考慮した損益分岐点は、額面だけで計算した場合よりも遅くなる可能性があります。
また、繰下げ受給中に加給年金(配偶者や子供がいる場合に支給される加算部分)は支給停止となりますので、家族構成によっては繰下げのメリットが減少することもあります。
税金や社会保険料を含めた総合的な判断をするためには、専門家のアドバイスを受けることをおすすめします。
日本の年金制度における繰上げ・繰下げ受給の仕組みを考える上で、世界の年金制度の動向も参考になります。多くの先進国では高齢化に対応するため、年金受給開始年齢の引き上げが進んでいます。
アメリカでは2027年までに67歳、イギリスでは2046年までに68歳に引き上げられる予定です。日本でも将来的に65歳からさらに引き上げられる可能性は否定できません。
また、日本の繰下げ増額率(1カ月あたり0.7%)は国際的に見ても高水準であり、長寿化が進む日本においては繰下げ受給のメリットが大きいとも言えます。
ただし、日本の年金制度の特徴として、在職老齢年金制度があることで、働きながら年金を受け取る場合の選択肢が複雑になっています。諸外国の多くは就労による年金減額がない、または緩やかな制度となっているケースが多いです。
世界的な年金制度の動向を見ると、「より長く働き、より遅く年金を受け取る」という方向性が主流となっています。日本でも「全世代型社会保障制度」の中で、70歳までの就業機会確保など、雇用制度と年金制度を両輪で改革する動きがあります。
将来の制度変更も視野に入れつつ、自分にとって最適な年金受給開始年齢を選択することが重要です。
具体的な数字で考えてみましょう。厚生労働省のモデルケース(夫が会社員OB、妻が専業主婦の夫婦)では、65歳受給開始で月額約23万円の年金が支給されるとされています。
このケースで60歳から繰上げ受給した場合、24%減の約17.5万円になります。一方、70歳まで繰下げると42%増の約32.7万円、75歳まで繰下げると84%増の約42.3万円になります。
総務省のデータによると、高齢夫婦世帯の平均的な生活費は月額約28万円とされています。65歳受給開始では不足が生じますが、70歳以降の繰下げ受給ならば年金だけでもカバーできる計算になります。
実践的なアドバイスとしては、以下のような選択肢が考えられます。
年金受給開始年齢の選択は一度決めると変更できないため、慎重な判断が必要です。自分の状況に合わせたシミュレーションを行い、必要に応じて専門家に相談することをおすすめします。