古事記伝の作者である本居宣長は、1730年(享保15年)に伊勢松坂の豪商・小津家に生まれた江戸時代の国学者です。もともとの姓は小津氏でしたが、後に先祖の姓である本居を名乗るようになりました。
参考)本居宣長 - Wikipedia
1752年に京都へ出て儒学と医学を学び、1757年に松坂へ帰郷して医師として開業しました。宣長の生活は非常に勤勉で、昼間は医者の仕事を行い、自身の研究や門人への講義は夜間に行っていたと伝えられています。医業の傍らで『源氏物語』や『日本書紀』など国学の研究に没頭し、やがて日本の古典文学研究において大きな業績を残すことになります。
参考)国学者・本居宣長の生涯|『古事記伝』と「もののあはれ」に込め…
宣長の門人は489人を数え、その半数以上は町人や農民でした。身分の垣根を越えて多くの人々に学問を教えた点も、宣長の功績として特筆すべきでしょう。1801年(享和元年)に72歳で病死するまで、精力的に研究と執筆活動を続けました。
参考)https://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisizinbutu/motoorinorinaga.htm
古事記伝は、『古事記』全編にわたる全44巻の注釈書として構成されています。1764年(明和元年)に起稿し、1798年(寛政10年)に脱稿、そして1790年(寛政2年)から宣長没後の1822年(文政5年)にかけて版本として刊行されました。
参考)古事記伝 - Wikipedia
この注釈書の特徴は、当時の古事記の写本を相互に校合し、諸写本の異同を厳密に校訂した上で本文を構築している点にあります。宣長は漢籍の素養が深く、日本文法を自身で研究して係り結びの法則を確定し、漢字の字音の研究にも造詣が深かったため、文献の文字を重んじて常に帰納的に研究を進めることができました。
参考)https://ameblo.jp/k-konnothalasso/entry-12860357715.html
内容は神話・伝説から天皇の系譜まで幅広く、上巻では神代の神話、中巻と下巻では神武天皇から推古天皇までの歴史が詳細に注釈されています。特に歌物語の解釈において、宣長独自の「もののあはれ」の視点が貫かれている点が重要です。
参考)『本居宣長『古事記伝』を読む 4』(神野志 隆光)|講談社
💡 古事記伝の革新性
宣長が古事記伝の執筆に35年もの長い歳月を費やした背景には、いくつかの重要な理由があります。まず、当時の古事記はすでに解読不能に陥っており、その文章を正確に理解することが極めて困難だったという事実があります。
参考)本居宣長と古事記伝 - 宇陀市公式ホームページ(文化財課)
1764年(宝暦14年)正月から本格的に着手した『古事記』研究は、単なる文字の解読にとどまらず、古代の言葉の意味、文法、思想まで徹底的に探求する必要がありました。宣長は平安時代の歌文に通じており、六国史以下の史書にも精通していたため、膨大な文献を参照しながら一語一語丁寧に注釈を施していきました。
参考)30,言霊の幸う国 - ネーブルジャパン-naveljapa…
また、医師として生計を立てながらの研究であったことも、長期化の一因となっています。昼間は患者の診療を行い、夜間に研究に没頭するという生活を35年間続けたのです。その間、紀州藩に仕えたり、最愛の母親と師匠の賀茂真淵を失うといった人生の転機も経験しながら、69歳でようやく完成にこぎつけました。
参考)本居宣長のプロフィールを解説。年表や作品も気になる!
さらに注目すべきは、宣長が空理に走らず文献の文字を重んじて常に帰納的に研究を進め、奇矯な推理に走ることがなかったという学問的姿勢です。この厳密な態度が、結果的に執筆期間を延ばしたものの、古事記研究の金字塔と呼ばれる不朽の名作を生み出すことにつながりました。
宣長の人生を決定づけた出来事が、1763年(宝暦13年)5月25日の夜に起きた賀茂真淵との出会いです。この出会いは「松坂の一夜」として後世に語り継がれる歴史的な瞬間となりました。
参考)本居宣長の人生を変えた師との出会い「松阪の一夜」 - 松阪市…
当時34歳の宣長は、松坂の旅宿「新上屋」に宿泊していた67歳の国学者・賀茂真淵を紹介状もなく訪問しました。真淵は『冠辞考』を出版し、『万葉集』の研究もほぼ終えていた国学の第一人者でしたが、宣長をあたたかく出迎え、彼の『古事記』研究の意志を励ましました。
参考)縣居通信|賀茂真淵記念館【浜松生まれの国学者、賀茂真淵】
真淵は自分の年齢を考え、次の課題である『古事記』の研究を宣長に託すことを決意し、自らの学問のすべてを教示することを約束しました。翌年、宣長は正式に真淵に入門し、『古事記』の注釈に取り組み始めます。
この一期一会の出会いがなければ『古事記伝』は存在しなかったとさえ言われています。師弟の絆は真淵が1769年に亡くなるまで続き、手紙による指導を通じて宣長の学問は深化していきました。真淵の励ましと教えがあったからこそ、宣長は35年にわたる困難な研究を最後までやり遂げることができたのです。
参考)作者:本居宣長 - Wikisource
📝 松坂の一夜が示す学問の継承
古事記伝の完成は、単なる学術的成果にとどまらず、日本の思想史に大きな影響を与えました。最も重要な影響は、幕末の尊王攘夷運動への思想的基盤の提供です。
参考)近世(安土桃山時代~江戸時代)
宣長の国学は天皇を尊ぶ考えと結びつき、水戸学などの尊王思想を支える流れと結合しました。人々は古事記伝を通して自らの神話を知り、「日本人とは何か」を考える契機を得たのです。この影響は幕末の思想運動に波及し、明治維新という大変革の時代において日本人の精神的な土台として大きな役割を果たしました。
参考)読めなかった古事記、読まれた日本書紀 — その背景と古事記伝…
また、宣長が提唱した「もののあはれ」の思想も重要な影響を及ぼしています。儒教的な「勧善懲悪」とは全く異なるこの概念こそが日本固有の情緒であり、王朝文学の本質であると宣長は位置づけました。この思想は『源氏物語』研究においても展開され、日本文学研究の新たな地平を切り開きました。
参考)国学者・本居宣長~「もののあはれ」の思想とは?
さらに、古事記伝は文献学的な手法においても画期的でした。諸写本を厳密に校訂し、古語の意味を丹念に研究する手法は、後の国学者たちの模範となり、日本の文献学の発展に大きく貢献しました。宣長の弟子たちによって国学は全国に広がり、江戸時代後期の知的文化の形成に重要な役割を果たしたのです。
参考)本居宣長について|本居宣長記念館(公式ホームページ)へようこ…
興味深いことに、宣長の『古事記伝』が全巻刊行されたのは彼の死後21年目の1822年でした。しかし、その思想的影響は刊行前から門人たちを通じて広まっており、日本の近代化の精神的基盤となっていきました。
本居宣長記念館の公式サイトでは、宣長の生涯や『古事記伝』に関する詳細な資料を閲覧できます。
⚖️ 古事記伝の多面的影響