学校の議論で見落とされがちなのは、「学びの成果」より先に「学びの感情」があるという点です。堀江貴文氏は、学びの本質を“わからなかったことがわかることで生まれる喜び”だと述べ、知るプロセス自体が人の知的欲求を動かすと指摘しています。実際、楽しいはずの学びが「つらいもの」へ変換されると、努力は継続ではなく消耗になります。
ここで重要なのは、学びの喜びが“ご褒美”ではなく“エンジン”であることです。理解できた瞬間に脳内で起きる快感は、次の問いを呼び込みます。ところが、授業が「覚えさせる」ことに寄りすぎると、問いが先に立ちにくくなり、学びは受け身になります。堀江氏が「先生は教え方が下手で、回りくどく覚えづらいように教える」と批判するのは、単なる愚痴ではなく、学習体験の設計の問題として読めます。学びが“納得→試す→また疑問”という循環に入れない限り、喜びは再現されません。
さらに、学びの喜びが消えると、子どもは「自分は学びが苦手だ」という自己認識を持ちやすくなります。苦手意識は能力差以上に行動差を生みます。結果として、学びが得意な子はますます加速し、苦手な子は止まる。学校が格差を縮めるどころか、学び方の格差を固定化する危険が出てきます。
有用:堀江氏が「学びの本質=喜び」「オールB量産」をどう語っているか(根拠の一次情報に近い記事)
東洋経済オンライン:堀江貴文「親は子がやりたいことをやらせよ」
堀江貴文氏の主張の中で象徴的なのが「オールB」という比喩です。先生たちに課せられた役割が、反抗心や集団から外れようとする「出る杭」を打ち、平均的に優秀な「オールB」人材を養成することだ、と述べています。これは、個性や強みを尖らせるより「協調して同じ基準で動ける」ことが優先される設計だという見立てです。
学校の評価は、たいてい「一斉に同じものを同じタイミングで」やらせる形式と相性が良いです。つまり、運用しやすい評価ほど、平均化とセットになりやすい。ここで“平均的に優秀”が悪いわけではありませんが、AIやネットで学びの入口が無数にある時代に、「同一カリキュラム・同一速度」である必要性は下がっています。堀江氏が言う「没頭を奪う」という批判は、まさにこの速度と選択肢の設計が、没頭の芽を折るという意味です。
また、平均化が進むと、子どもは「失敗しない動き」を選ぶようになります。目立たない、外れない、怒られない。けれど新しい価値は、だいたい“外れ値”から生まれます。強い興味を持って深掘りする子、独自の表現をする子、質問が多い子。そうした子が“扱いづらい”として矯正されると、社会に出たときに必要な創造性や自己決定力が弱りやすい。堀江氏が批判するのは、個々の教師の人格というより、平均化を正義にしてしまう制度の癖です。
有用:堀江氏が「義務教育=凡庸なジェネラリスト量産装置」「勉強=つらい刷り込み」をどう論じているか
東洋経済オンライン:堀江貴文「学校がつらければ行かなくて大丈夫」
「義務教育」は、本来は“権利”としての側面が強い言葉です。一方で現場では、義務=同じ枠に収める圧力として働く場面もあります。堀江貴文氏は、義務教育が「凡庸なジェネラリストの量産」を目的化していると批判し、学校が子どもの没頭や突出を抑える構造に疑問を投げかけています。
ただし、ここで議論を雑にすると「学校は全部ダメ」「行かないのが正解」という短絡になります。現実には、学校が安全基地になっている子もいれば、学校でしか出会えない機会もあります。大事なのは二択ではなく、義務教育の“機能分解”です。例えば、学校が担っている役割は大きく分けて3つあります。
この3つが一体化していると、「学力のために居場所を我慢する」「居場所のために学習体験を我慢する」のようなトレードオフが起きます。堀江氏の批判は、特に“学習体験”の部分で喜びが失われ、平均化が進むことへの警鐘として読むのが建設的です。
さらに、制度の側も変化の言葉を持っています。文部科学省は学習指導要領の方向性として「主体的・対話的で深い学び」を掲げ、授業改善を促す資料も公開しています。つまり国としても「受け身の一斉授業からの転換」を目指す建前はある。しかし現場に降りると、時間割・定期テスト・内申・進学競争が残り、実装が追いつかない。ここに「言っていることと現場の体験が違う」というギャップが生まれ、堀江氏のような強い批判が支持されやすくなります。
有用:国が掲げる「主体的・対話的で深い学び」の公式資料(授業改善の考え方の一次情報)
文部科学省:主体的・対話的で深い学びの視点からの授業改善(PDF)
“平均的な人材の量産”が学習面だけで起きるとは限りません。日常のルール運用、つまり校則や指導の文化も、子どもの自己決定を削る方向に働くことがあります。堀江貴文氏は、学校には多くの禁止(校則)が存在し、それが「洗脳」の手段として機能しているとまで述べています。ここは言葉が強い一方で、校則が「考える力」ではなく「従う習慣」を優先させる局面があるのは、経験的に理解しやすい人も多いでしょう。
一方、校則に関しては社会側でも見直しの動きがあります。文部科学省は「校則の見直し等に関する取組事例」を公開し、児童生徒が話し合う機会を設けたり、保護者アンケートを行ったり、校則を学校HPに掲載して見直しを促す例などを示しています。重要なのは、校則の是非を感情で戦うのではなく、「目的」「手段」「副作用」を見える化することです。
例えば、校則の目的が「安全」なら、手段は“服装統一”以外にもあります。事故が多いなら動線を変える、健康上の問題があるなら保健指導を強化する。ところが、目的が曖昧なまま「昔から」「みんなが守っているから」で続くルールがあると、子どもは“目的を問い直す経験”を失います。これが学びの喜びにも直結します。問いを立てる癖は、校則の議論の中でも育つからです。
この話題で意外に見落とされるのが、「校則を見直すプロセス自体」が民主主義の教材になる点です。ルールの背景を調べ、利害を調整し、合意形成していく。これほど実践的な学びはありません。校則が問題なのではなく、校則を“固定された命令”として扱い続けることが問題になります。
有用:校則見直しで「生徒の参加」や「公開」を含む事例を文科省が示している(公式情報)
文部科学省:校則の見直し等に関する取組事例
検索上位の議論は「学校は行くべきか」「義務教育は時代遅れか」に寄りがちですが、独自視点として提案したいのは、学びの喜びを取り戻す鍵が“カリキュラム”ではなく“検証の習慣”にあるという点です。学校に行く・行かないより先に、学ぶ人が「自分の学びを測って改善する」ループを持てるかどうか。ここができると、学校が平均化しようが、環境の制約があろうが、喜びは再現しやすくなります。
具体的には、子どもでも大人でも、次の「ミニ検証」を回すだけで学びの体験が変わります。
このループの良いところは、成功の定義を「点数」から「昨日の自分との差分」に移せることです。差分が見えると、喜びが生まれやすい。堀江貴文氏が言う“わからなかったことがわかる喜び”は、差分が可視化された瞬間に発生します。
そして、この検証習慣は「平均化」に対する現実的な防御策にもなります。学校が全員に同じ課題を課すなら、課題を“自分用に再設計”すればいい。例えば、漢字の書き取りを「好きな分野の文章で例文づくり」に変換する、歴史の年号暗記を「ストーリー要約+地図で位置確認」に変換する。外形は授業に合わせつつ、中身は没頭に寄せる。この“二重運用”は、学校に適応しながら突出を守る戦略です。
最後に、平均的な人材を量産する構造があるとしても、そこから抜ける道が「特別な才能」だと誤解すると苦しくなります。必要なのは、才能よりも運用です。学びの喜びを感じる仕組みを自分の中に実装し、検証を回す。すると学びは“やらされるもの”から“試したくなるもの”へ変わり、平均化の圧力の中でも自分の尖りを育てられます。